2006年03月13日

サル駆除問題

 相次ぐサル被害から、各市町村では環境問題対策においての1つの方法として立ち上げている「サル駆除」について、動物保護団体や動物愛護団体が多くの反対意見が寄せられているらしいが、報道されている内容を見る限りでは、動物保護団体や動物愛護団体に関係する人々の反対する理由に大きな疑問を感じる。

 そんな彼らの意見の一つとして、「ヒトがこれまで行ってきた環境破壊からきているのに、駆除という対策法はおかしい」と批難しているその見解には、《民間による野生ザルの餌付け行為が起因となっていることがある》ということについての見解や、農家の田畑が被害に遭っていることについての配慮もなく、野生ザルがどんな生態を持ち、どんな性質を持つのかも知らずに、対策法を自らが考えることもなく反対運動を行っている。

 この他にも、反対運動を行う人々の特徴として、「国宝だから」とか「サルも人間と同じ生き物だ」だとか「子供の教育によくない」などといった、野生動物を人間世界の平和的感覚に擬似化させた発想で反対運動を行っているようであるが、これはあくまでも人間側の勝手な解釈であり、人間の手が入らない自然界に生きる野生動物の世界では、人類が築いてきた法則はまったく成り立たない。

 中には、「サルは神だから」というある宗教思想よりの神社側の思想もあるようであるが、野生のサルは野生のサルである。

 至って客観的に生物学的に見れば、人間の生態は(このようなこれらの行動パターンを観察するに)、非常に奇妙な行動パターンであることがわかる。


 野生動物の世界では、過酷な生存競争があって当たり前である。地球環境における変動で食糧不足による問題は日常茶飯であり、生存するために食糧を得るに必要な領土を必要とする。

 地球資源は限りあるから、同じ捕食物を狙う動物間で生存競争が行われるだけでなく同じ種の動物であっても、両者の間で生存競争が行われる。

 サルはヒトに近いので、人間は都合よく擬似化して考えやすいが、サルは遺伝子においてもヒトに近くても、野生のサルは想像以上に力が強く、高度文明で野生できる能力が退化したヒトは力が弱いので、例えペットであっても、サルがじゃれてくるだけでも、ヒトにとっては非常に危険である。

 先に挙げた上記の反対理由のうち、「子供の教育に良くない」ということについては、現在社会現象として問題視されている反社会性人格による問題を根底にされたものであるが、野生ザルの生態を考えれば、どう考えても、道徳教育には適さない。

 サルは、他のサルの子供を狩して、仲間の間で食するものいる。サルの中には知性が高いボスザルを持つ族もあれば、力をすべてとする俗的で強暴な族もある。また、中にはある民間ではオランウータンを「知識のヒト」と呼んで、人間より知識があると認識されているところもある。それは、多種多様で、そこは生物学で言う生態系の多種多様性の神秘として扱われる分野である。

 このような知識は、科学番組や動物情報番組などを日頃から見て情報収集しているなど、よほどリサーチしていない限り、わからない話であるが、事実は事実であので、これらを直視しして正しく認識し、考察なければならないであろう。

 何故なら、環境の構造や物事の成り立ちに無知であっては、いざ問題が起きたときに、適切な対処ができるはずがないからである。

 人間はサルの知能を軽視する傾向にあるが、生存するに必要な学習能力は高度文明で怠惰して退化しているヒトの学習能力より非常に高い。これは、死活問題が関わっているからであるが、他の種の問題より対策が難しいことを考えると、知能が高いことを物語っている。

 平たく簡単に述べてしまえば、うまい食糧があれば、それを求めたり、資源がある環境が良いところに領土を持つために戦いを挑んだり、領土の維持するために攻防にと戦うのは、これはすべての動物に見られる行動パターンであり、それは人間の行動パターンと同じである。

 野生ザルが強暴な行動に出るのは、死活問題や生物における(道徳的に考えれば非常とも言える)繁殖能力が関わっているからである。

 少なくとも、「あなたのテリトリーはあの山でしょう。帰りなさい」などと人間の道理を言って、野生動物がわかるものではない。

 人間の間でも、経験値で凝り固まった固定観念から、言い争いが生じ、両者とも引かずに対立が続いているのが日常茶飯事であるのだから、人間の道理というのは物理に対して実に無意味である。

 生物学からの見解で、かのアッテンボロー卿のように考察すれば、野生動物のしきたりに従うならば、もし、人間側の領土が侵されれば、戦って攻防するしかない。

 だから、被害を受けた被害者が、実際に銃を持つ資格を取って猟銃を手に攻防に出るのも、食糧に毒薬をもって攻防に出るのも、環境対策においての1つの手段として駆除に出るのも、自然界の法則に従えば是である、と私は考えている。

 さて、このように言っている私は、実は地球環境保護のための活動を自分が出来る範囲内で行っている。しかし、私に場合は、あくまでも生物学からの知識を元に考察している。

 すなわち、人間も生物学の諸説を底辺にして、生態や生態系をスケールにして考えているというわ
けであるが、他方、政治・経済からの視点からも考えている。

 少なくとも、民間においては、餌付けしたり、野生動物のテリトリーを侵すべきでなく、理論的に考えれば、野生動物が人間のテリトリーに入らないようにするだけの対策が各個人で行われる必要があるが、適切な対処ができるだけの能力や知識をすべての人々が持ち得るわけでもない。

 ここでハッキリ言ってしまえば、一度、そのようになってしまったものは、取り返しがつかない。被害に対する対処法については、環境によってそれぞれ原因が違うため、個別に分析して対処する必要がある。最も有効な対策法は、被害者自身が攻防できるだけ強くなることである。


 報道されている反対者について一律に言えることは、実際に被害を受けている側の状況を考慮せずに反対運動を行っている。

 が、もし、自分自身が被害を受けたらどうだろう?

 もし、自分のテリトリーが侵されれば、黙っていられる筈もないだろうに…。

 物申せば、愛護精神を持つ人々は、にこやかに畑になった食糧をわたし、こころよく自らの生活基盤であるテリトリー明渡すことができるだろうか…?

 疑問である。


 自然環境を保護するのであるならば、それに必要な物理的な知識をあらかじめ持つ必要がある。少なくとも、生物学からの知識は必須である。

 物理的に環境保護を考えるのであるならば、対処においては、民間において必要な知識を得させるべきであり、それぞれが最悪な因縁を作らないように個々で努力させることにある。また、生態調査をするなどして、物理的根拠を得た上で、人間が環境を考えずに必要以上に手を入れることを阻止(つまり訴訟をも含む)することも必要である。

 すなわち、同じ反対運動を行うのならば、現在企画されている環境破壊に繋がる市町村の都市開発だけでなく、企業や個人の土地開発を食い止める事もこれに含まれる。

 従って、この対処をせずの環境保護活動は、物理的な面で対処できてないだけ無意味である。つまり、人間の道徳観だけでの行動では偽善に過ぎないからである。

 果たして、どれほどの環境保護活動者が適切に対処して活動できるのだろう?

 自分自身に不都合なもので不利益となるのならば、原因にメスを入れて改善するのを潰してしまうのではないだろうか?


 生物は必ず何かの捕食対象となり、それは生態系の中で食物連鎖で成り立っている。その意味では生物は(他の生物の食糧資源として)大切なものだと思う。

 これを人間の都合でよいように解釈され、人間の都合で地球資源が使い尽くされてはならない。その結果、環境破壊から生態系の崩壊によって、最終的には自分自身に帰ってくるのだから。


 地球環境は地球生命において等しく地球資源が与えられており、生き残る権利はどの生物にも与えられているため、生き残るためには共存戦争が過酷なものとなる。これを見落としてないだろう…?

 生存競争と言えば、残虐且つ過酷な世界であるが、これに目を瞑っていては真実が見出せず、適切な対処を取れずに悪循環な流れを生むことになる。

 ヒトが生物としての生き続けるにおいては、その生活基盤を見れば、そもそも、無駄が多い。

 ヒトと言う生物が生き延びるには、珍しいペットや高級品なども必要ない筈であり、娯楽性の欲求を満たす嗜好物は必要ない筈である。

 この精神が物理的な見解からの地球環境保護の1つの理念である。

 環境保護する意味を取り違いしている人々が非常に多いのではなかろうか…?

 品行方正で物理的な見解から適切に対処し様と努力している環境保護活動者や学者も昔に比べて多くいるというのに、このような無意味なことで、環境保護活動について変なレッテルを貼られてしまいがちになってしまう傾向にあるのは誠に残念である。
posted by seed at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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